昭和20年の10月も終わりに近づいた頃、なんのためかわからない
が、地図・写真機・双眼鏡・磁石の類が強制的に没収された。
興南の港からは、連日おびただしい数の、ありとあらゆる種類の略
奪物資が船に積み込まれた。やがて、私たちは、将校と兵が、それ
ぞれ、別の梯団に組み分けられてソ連貨物船に乗船させられ、入ソ
の第一歩を踏み出すことになるのであるが、当時、私たちが『どこへ
連れて行くのか?』と訊ねると『船で真っ直ぐ日本へ送って行く』との
答が返ってき、『みそ、しょうゆ、荷車や支那馬まで積み込んだよう
だが?』『日本は敗戦で酷い食糧不足に苦しんでいる。スターリン閣下
の特命で出来るだけ多くの救援物資を送って行くのだ』と説明する。一抹
の不安は残ったが、言われることを信じるほかなく、私たちは、お互いに肩
を寄せ合いながらソ連船上の人となった。
港を出ると、船は針路を北にとってノロノロと進んだ。朝霧が晴れて、
目にする景色は見なれた満ソ国境の山なみである。
『日本に向かっていないようだが?』
『機雷を避けて、航路を選定している。大船に乗ったつもりでおれ
は良い。津軽海峡を通って、じきにトウキョーだ』
しかし、船は動いたり止まったりで、一向に日本に向う様子はない。
やがて3日日の朝、『諸君を日本に連れて行く予定だったが,船が
故障して外航ができなくなった。代船が来るまで、一応、上陸して
船待ちしてもらう』と言って来た。
"知らしむべからず、拠らしむべし"を国是とするこの国では末端の
指揮官は、あるいは本当に、それしか知らされず、彼ら自身、そう
信じていたかも知れないが、とにかく、誠しやかな説明と共に、ナホ
トカの北西、国境に接したクラスキナの仮収容所に入れられること
になった。
ここで、直接陸路国境を越えて抑留された10万を越える関東軍
の将兵と合流して明日知れぬ異境の生活が始まった。
そちこちの幕舎で、いわゆる『コックリさん』が流行して『シベリア送り
だ』『いや、将校は正月までに日本に帰れる』−−等々,もっともら
しい御託宣が流布され一喜一憂を繰り返していた。
だんだん冷え込んできて、沿海州の紅葉した山並みに晩秋の日ざ
しのかげるころ、防寒服(押収品)が支給され、好むと好まざるとに
かかわらず、越冬の態勢に追い込まれていった。
列車の引込線からは、連日、500名単位の輸送梯団に分けられた将
校が、二段に改装された貨車に詰め込まれて、次から次へと、シベリアの
奥地に送り出されていった。
ここで、シベリア送
りの梯団の編成につ
いて触れておこう。
先に述べたように、多くの部隊では、入ソを前に、ソ連側の指示により、
将校と兵・下士官を分けて梯団を編成した。将校梯団は別に問題は
ないが、兵の悌団については、当初から俘虜として労働就役が予測さ
れていたので、その長を誰にするか、状況が状況だけに、大いに部隊長
の頭を痛めた。
お先真っ暗の極めて悲観的情勢の中に500人なり1,000人なりの隊
員の生命を託す、独立指揮官の任命、これは大変な問題である。
良識ある立派な部隊長は、陛下の赤子を託するにたる人物というこ
とで、涙を飲んで因果を含め、最も信頼する人格識見共に優れた部
下を任命した。
不測の事態に動転、自己喪失もしくは、イージーゴーイング、なりゆき
まかせの凡将は、『将校団から出すのは誰にしよう』という程度の認識で、
平素からの嫌われ者、外れ狼的な将校か、ひと魂胆ある好物を指名し
て指揮官につけた。後者の典型的例は、戦後『暁に祈る』で、マスコミの
話題をさらった、Y隊長であろう。
前者の立場に立たされ、酷寒の地に人知れぬ苦労を重ね、その青春
の情熱をかたむけて大任を果たされた、立派な先輩も決して少なくない。
12月の初め、いよいよ、私たちも、関東軍将校と促成の一梯団を編成
し、25日間に及ぶシベリア横断の旅に出発した。
少尉を長とする1コ小隊の警備兵が配置され、輸送指揮に当たってい
たが、彼らも、『取り敢えず、ハバロフスクまで送って行く』という以外、何も
知らされていないようであった。
戦い終って4ヵ月、早く祖国の土を踏みたいという希望に背を向けて、
私たちを乗せた列車は、酷寒のシベリアを一路、西に向かって走り続けた。
バイカル湖畔を過ぎるころからは、車内でも寒暖計の目盛は零を大き
く下回る日が多くなり、壁際には20センチくらいの氷壁ができ、立て掛け
た軍刀や装具にも氷の花が咲くようになった。
旅のつれづれに、警備の兵隊たちとも馴染みができ、人なつこい連中が、非番の
時には遊びに来て、いろんなことを駄弁って行くようになった。中でも
グルジア人という、一見日本人そっくりの1等兵は、格別に親近感を持ったの
か、時にはウォッカを隠し持ってきたりして話し込んでいくこともあった。
チタを過ぎて、いよいよ白一色、単調極まりない明け暮れのある夕、
『今日はお別れに来た。皆とも、さようならだ。』といって浮かぬ顔をした彼
は、涙さえ湛えて帰ろうとしない。
『自分一人だけ少数民族出身のために、小隊で皆にいじめられるんだ。
ロシア人の先任やユダヤ人の軍曹が、とくに辛く当たるので、もう一緒に
やってゆく気がしない。同じ民族の貴方たちが、うらやましい。次の大停
車駅で俺は逃げ出してやる』
戦時逃亡の極刑は私たちも、よく知っており、どこか日本の農村出
身の少年兵の面影を宿しているこの兵隊に格別の同情を感じて、皆
で慰留に努めたが、頑として開かず、その夜以来姿を見せなくなった。
翌朝停まった駅で、警備兵全員が集まって、何か異様な雰囲気だっ
たが、『何かあったのか?』と訊ねても『なんでもない。お前たちには関
係ない』という答えしか返ってこなかった。 続く
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