ウラルの彼方道遠く C             もどる

 

大陸横断中、一番悩まされたのは列車の運行予定が、皆目

わからないということだった。

 駅に着くと、警備兵が回って来る。『用便下車、よろし

い』−−それっと水汲みや、炊事車で準備した食事受領に

駈けつける。貨車の中にも、床に丸い穴をあけて席で囲っ

た簡易便所があるが、50人に1穴じゃ、とても、まかない

きれないし、眠っている戦友の枕もとというのも頂けない。

 いきおい、停車の機会を利用してシベリアの処女地に

還元という段取りになる。とたんに『ボーッ』『出発だ。

すぐ列車に戻れッ』

 こんなことを繰り返すうちに、とうとう、バイカルまわ

りの一小駅で生理処理中の1人を置きざりにして来てしまった。

 停車は、大体、3時間くらい走って給炭、給水、半日走って

ブリガードナス、スタンツイヤ(大停車駅)というのが普通

だが、正確なダイヤ、停車時間は誰に聞いてもわからない。

警備隊長に聞くと『出るとき出るさ。なんで日本人は、いち

いち、そんなことを知りたがるんだ。船に乗ったら、船頭に

まかせるもんだ』と、うるさそうに答える。

 駅長に訊ねてもわからない。『たぶん、機関手なら知って

いるかも知れない』機関手は『うん、知っているよ』『じゃ

あ、いつ発車するんだ?』『前の信号が青くなったら出発だ』

−とんだ三題噺である。

 それからは、生理的処理も貨車のどこかにつかまって、半

腰でやるようにした。

 シベリアの駅で,一度ならず,私たちと反対に向う不思議な輸

送梯団とすれ違った。そのころ、私たち捕虜は、もう、ここまで

来れば逃げ出す心配はないというちとで、駅に着いたら扉を開
けて用便、水汲みなどが許され、比較的自由な行動がとれたが、
この東進梯団は、そうではない。停車中も、貨車の扉ほ厳重に
鍵をかけたままで、執銃した警備兵が絶えず監視している。

 私たちが近づくと『誰か扉を開けてくれ』と呼びかけて来

る。貨車の中には老若男女、入り乱れての喧騒が満ち満ちて

いる。瞬時、私は自分が輸送指揮官になって、敗戦の抑留民

を送っているような錯覚に装われる。

 屏越しの一問一答で、彼らがウクライナの農民で、シベリ

ア開発に強制移住させられていることを知った。

 『お前たちは、自発的に志願して来たのか?』『冗談じゃ

ない。やっと戦争が終わって、これからという時に、なんで

あの気候の良いウクライナから出る気になるものか』

 『家族ぐるみの移住か?』『とんでもない。勝手に指名さ

れ、集められて、このざまだ。皆、親子兄弟はばらばらだ』

 話には開いていたが、直接、鉄のカーテンの内側の閉鎖

社会の一面に触れて、今さらながら、大変な奴らにつかま

ったものだとの印象を強くした。

こんな思いにふけっているとき、後にいた私達の梯団の

警備兵が『通訳ッ、危いッ!逃げろッ』と怒鳴り出した。

 てっきり、移民側の警備兵が、とがめに来たものと思い、
23歩飛びのくと、後ろでバシヤーツと、すさまじいシャ
ワーに虹が立った。警備兵はニヤニヤして上を見ている。

我にかえって焦点を合わせて凝視すると、小さな明りとり

の窓から突き出された偉大なる抑圧民族の故郷が、黄金の

樹立に囲まれてほのかな、かげろうを立てていた。思わぬ

眼の保養に、ごくりと、生唾を呑み込んだ。

 これは、また、別の梯団だが、貨車の側面一ばいに、国

鉄のストなみの張り紙や、アッピールを掲げた施錠列率に

行き会ったこともある。

 日く、『勝利の栄光、われに!』『ファシスト撃滅、自

由の到来』『赤軍万歳』『われらtら勝てり!』等々。中か

らは、バラライカ、アコデオンの音に混じって,相当アル

コールの回った、だみ声の合唱も聞こえてくる。全く陽気

で、喧騒というより、何かやけっぱちで騒いでいるといっ

た感じの一団であった。

 聞いてみると、ドイツの俘虜になっていたソ連兵が、戦

勝で釈放された。ただし、在外生活中、とくに、ナチスの

俘虜として、どんな洗脳を受けているかわからない。そこ

で、すぐ復員させずに、一応シベリア奥地の強制労働収容

所に送り込んで、保護観察を加えながら3年の服役をさせ、

ソ連に対する忠誠心を有する間違いのない者から帰して行

くということであった。

 戦争終結後半歳、もちろん、この梯団も厳重な施錠警戒

がなされていて、飲酒・放歌高吟以外は俘虜なみ、いや、

それ以下の取りあっかいである。そこでも鎖国主義国是の

施策の一面を、まざまざと見せつけられた一幕であった。

 この連中は東行の途次、すでに多くの日本人の先行梯団

と文化交流を重ねて来たらしく、私を日本人と認めると

『おい、日本人。こっちへ来い。チン×,オ○△コ,オ□

□,ハラショー』と扉の隙間から呼びかけてきた。

 兵隊の好みは万国共通であり、民族の大移動とともに伝

わり残ってゆくのは、こんな原始的語嚢だけなのかも知れ

ない。

 言霊のさきはう国の美しい、やまとことばと違い、大陸

には、共通のボトムの嘲り言葉が沢山ある。支那語のカン

ニ・ニーマ,英語のマザー・ファッカに相当する、ヨッブ

・トバヤ・マーチ、さらには、そのものずばりのフィニ

ヤー(陽物)、ピビズダー(陰物)があり、日常会話中、

いとも簡単に口をついて出てくる。これらは学校では教え

てくれなかったし、辞書にも、載っていない、ネイチヴ・

ランゲージの一つであろう。

 

 2週間ほどの行程を終わってシベリア最大の都市、ノボシ

ビルスクに着いた。零下20度の凍てついた街並みは、なん

となく新興の息吹きの感じられる街だった。

 この町で、私たちは初めてロシア式入浴を体験すること

になった。毛布を担いで、とぼとぼと小1時間歩かされて市

営浴場に着いた。順番を待って二重扉を押して中へ入ると、

被服装具は一まとめにして熱気消毒に回される。人間の方

は裸こなって、一人一人、ちょうど学校給食のマーガリン

のようなちっぽけな粗製石鹸を渡されて浴室に入る。そこ

で各人、小さな金だらいに一杯の湯をもらって、これで2

間分の全身の垢を落とすわけであるが、湯水に不自由なく

暮らしてきた大和民族には、なかなかの難行であった。

 ノボシビルスクの浴場には、さすがに上がり湯のシャワー

があったが、これから2年余の抑留生活の間の入浴は、すべ

てこの調子で、とっぷり櫓の浴槽につかりたいというのは、

食生活とともに、私たちの祖国を偲ぶ切なる願いであった。

 私たちと一緒に、多くの市民たちも入っていたが、

彼らは嬉々として、なんのためらいもなく、大型の洗

面器といった方が適当な容器一杯の湯で全身を洗って

出て行く。

 そのうち、私たちも、少ない水を最大限に効果的に利用
する大陸民族の生活の智慧を見習って帰国前ごろには、
コップ一杯で顔を洗い、飯合一杯で上半身を拭くくらいの
芸当は出来るようになった。

 さらに、これは発疹チブス予防策の一つであろう、風呂

から出るころには、被服装具一式の消毒も終わってホカホ

カしたものを(もちろん、汚れはそのままだが)身につけ

て、雪の降りしきる街を列車に向かって帰っていった。

 ここで糧秣・薪炭を積み込んで、再び、あてどのない旅

が始められた。          −つづく−

             もどる