収容所に着くと先輩格のドイツ人俘虜が数十人、待ち構えていて、
綿のように疲れきって辿りついた私たちを、暖かく迎えてくれた。
先ず入浴(といっても、例の洗面器一杯の湯だが)、出て来たところで
散髪、終って手を上げさせ、あっという間に、上から下まで生えている毛
は全部剃り落とされてしまった。
やや、余裕を取り戻したのが、監督していたロスケに喰ってかかった。
『大事なところまで剃ってしまって、女房に会わす顔がない』
『心配するな。生え揃うまで帰すことはない』
ときに誠実で約束に忠実なロシア人は、本当に完全に復元するまで、
帰してくれなかったのである。
ここで、部屋割りをして、帝政時代の尼僧院だったという3階の
石造家屋と、二つの半地下式居室(ゼムリヤンカ)に落ちついた。
あまりうまくはないがドイツ人の炊事係が準備したピースの粥など
の温食給養にもありついた。
『どうも、ガス室送りではなさそうだ。この分だと、ロスケも案外、
火事泥的戦争加入を恥じて日本人抑留者は、大事にされ
るのかも知れないぞ』
勝手な妄想をめぐらしながら、南京虫の待ち構える丸太造りの寝床に、
ボロ屠のようになっている身体を横たえた。
収容所までの行軍の間に、気温の急降と疲労の累積から、約250人
の凍傷患者がでた。もっとも、軽度の凍傷には、全員やられて、1週間
くらいして傷心で迎えた昭和21年の正月には、ほとんどの者が、鼻の頭
や耳たぶの端を真黒くしていた。中で100人ばかりの音が、とうとう手術
しなくてはならなくなった。重傷者の中には、両手両足を切断されて、
戦い終わって半歳の後、思いもかけぬ廃疾の身を異郷に横たえる結
果になった悲運の人々もあった。
手術は日本の軍医とソ連の医師が一緒になって実施した。そのたび
に小さなトラブルが起こった。日本人医師は少しでも手術を小さくしよ
うとする。手指の関節なら一関節でもよけい残そうとする。ソ連医師は,
壊死の伝播を怖れて次の関節から切断しようとする。
医師同士は、通常の事態ではドイツ語でなんとか意志を伝え合える
が、こんがらがると通訳が必要になる。時に耳なれないラテン語が飛び
込む。また日本人として、お互いの気持がわかるだけに、また文字どお
り同胞の骨身を削ることだけに心痛が大きかった。
上肢や下肢の切断のような大手術になると、なかなかに麻酔がきか
ない。苦痛に暴れる患者は、看護婦と一緒になって押さえつけねばな
らない。最後に主骨の切断になると、かなりの年配者でも、無意識の
うちに叫ぶ声は、ほとんど例外なく『お母さん』であった。
ソ連当局も日本人将校を労働に従事させるということについては、
一応、慎重であった。収容所に入って約3ヵ月、飯炊きから便所の
汲み取りまで、すべて、ドイツ人の俘虜が当たって、日本人には何
もさせなかった。
前途の見通しもなく、しかも生活は一応落ちついて、何もするこ
とがないということも、なかなか大変なことであった。こんなある日、
収容所長D少佐・文化主任W氏同席のもとに、日本側主席との
会談を求めて来た。
『収容所の生活に慣れましたか?』
『大分、落ちついてきました』
『何か、ご不自由はありませんか?』
『食事その他、いえばきりがないが、一応よくやって頂ていると感
謝しております』
『退屈されているのではありませんか?』
『まあ、退屈といえば退屈ですね』
『どうですか、今、皆さんのお世話をドイツ人にさせていますが、
皆さんの健康増進のためには、軽い自活作業ぐらいは、やられた
方がよいのではありませんか?
『そうですね。ドイツ人なんかの世話になるのも、気づまりですね。
掃除や食事の準備など、私たちで出来る身の回りのことは、自分
たちで、やってもよいですね』
『そうでしよう。今日、私たちがこうしてお伺いしたのも、その相談
のためなのです。一応、私たちの提案に、ご同意頂いたと思いま
すので、自活作業は自分たちの手でやるということで皆さんの署名
を頂きたいのですが』
『・・・・・・・?』
『別に他意があるわけではないのですが、将校の方に、自活と
はいえ、作業をして頂くのは、たとえ身の回りのことでも問題と思
いますので、皆さんの同意を頂いた印として、署名をお願いした
いのですが……』
これには、いろいろ慎重論もあったが、結局、どうせやるなら、
はっきりさせた方がよかろうということで、
『われわれ、日本人抑留将校は、自己の健康増進と生活秩
序維持のため、自活作業に従事する』という意味の主文を付し
署名を集めて提出した。
これが、一つのワナだと気がつくのに、そう時間ほかからなかった。
最初は、所内作業をドイツ人から引き継いだだけだったが、その
うち、農繁期になると農耕はいうに及ばず、森林伐採、道路補修、
煉瓦工場、ガラス工場はては、鉄道建設まで駆り出される羽目
になった。
彼らがいうのには、収容所の食糧や燃料を確保するため、また、
営繕資材の配給を受けるため、さらには、それらの輸送路の補修
整備だから自活作業だと、止めどもなく拡大解釈されて、ほとんど、
あらゆる労働に従事させられるようになった。
しかし、それでも多少は気が咎めたのだろう。2年日に入ると、
『世界の平和を希求し、祖国日本への早期帰還と、新しい日本
の復興を願う、私たち日本人抑留将校は、友好的平和国家の
建設に努力するソ同盟の建設5カ年計画に協力する』という意味
の署名を求めてきた。
今度は、他収容所からの移籍者も多く、所内民主グループとの
葛藤もあって、相当の抵抗はあったが、大部分の者は『どうせなん
といったって、やらされるんだ。同じことじゃないか』という意見で、
最終的には署名を集めて提出した。それでも、100人はかりの人々
が、どうしても納得せず拒否し続けた。
これらの人々は、その後分離して、州都カザソに送られ、1カ月ば
かり独房に入れて個別調査を受けることになった。その後間もなく
収容所に帰ってきたが、署名の有無にかかわらず、就労を余儀な
くされていった。これらの人々のうち、何人かは、主力梯団の帰国
名簿から外され、さらに1〜2年の越冬を強いられる結果となった。
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