ウラルの彼方 道遠く』 G もどる
一私の終戦実錠−
1等空佐 松 木 佶
(幹部学校 研究部長)
−承 前−
所外作業の楽しみの一つに、物々交換があった。否、楽しみ
というより、俘虜にとって、唯一の追加栄養補給源であり、代用煙草
(マホルカ)の入手手段であった。
交換品は石鹸、タオル、敷布、靴下、時に下着類等の繊維製品、日用
雑貨などである。これらを上着の下に隠して持出し、作業の合間に、警備
兵の眼を盗んで黒パン、バター、マホルカなどと交換するわけである。『ダバイ、
ダバイ、フレーブ、マースロ、ハラショー』
原始的商行為に言語の障害はない。待ち構えている農婦たちに交換され
た、物品の多くは、彼女たちの流通機構を通って、翌日は自由交換市場
(バザール)の店頭に並ぶことが多かった。
もちろん、私たちの携行品は、厳重に登録され、褌一枚までリストアップさ
れ、敷布、下着などは乏しい民需を抑えての官給品である。見つかるとやか
ましいし、収容所長からも口を酸っぱくして不正持出しの取り締りを申し渡
されていた。しかし、蛇の道はへびの譬えのとおり、いろいろ、抜け道が考え
出された。また、大陸生活の長いベテランの中には、靴下を継ぎ合わせて
チョッキとして登録し、それを一つ一つ外しては売り飛ばし、栄養補給を続
こける智慧者などもいた。
収容所の明け暮れで、一番、皆の嫌がる仕事の一つは原木運搬であっ
た。夏は荷車、冬は橇を曳いて数キロ、時に十数キロ離れた伐採場から、
松や白樺の丸太を運んで来る作業である。もともと、馬や犬の役目を人
間がやるわけである。とくに、北国の冬は日が短い。朝は8時でもまだ薄暗
い。そんな中から作業隊を編制して出て行き、人里離れた現場から、1橇
1立米のノルマの原木を積んで、一日がかりで引っ張って帰る。相当の重労
働である。
しかも、冬が深まるにつれて,伐採現場は益々遠くなる。時に吹雪で道
も塞がれる。ひどいときは、朝出発した連中が、夜の10時過ぎて、やっと帰
りつくとも屡々であった。
一方、食事は、出発前、空缶製の代用食器一杯のフスマ入り小麦粉
の粥と塩づけ青トマトのしゃぶしゃぶスープ、昼は吹雪の中でとるポロポロの
黒パン一かけらの弁当、帰って来ると、野生の韮と風邪ひき馬鈴薯のごち
ゃ煮の晩めし。こんなことの繰り返しで、各隊輪番のこの作業も、だんだん
出て行ける元気者が少なくなっていった。
所内の給食委員会では、労働の難易度、持続性などを検討して、増
加食(乏しい皆の喰いぶちを集めての再配分)を出すようにしていたが、原
木運搬は、いつも、上位ランクの一つだった。
こうして運ばれた原木は、製材(人力)されて、営繕補修用になったり、
炊事や暖房の燃料に使用されるわけである。
ほかに、夏場はカマ河を利用して運搬されて来る原木もある。大陸の
秋は短く、急転して厳冬がやって来る。結氷期を前に越冬準備の一つ
として筏の解体作業がある。
夏の間に上流の伐採場から流されて来た筏を解体し、陸上げ、計量
整理する。すでに鉛色の空からは、雪まじりの冷雨が降りつけ、カマ河の
流れは刺すように冷たい。これも憂鬱な在ソ風物詩の一つであった。
ここの現場長に、面白い老人がいた。仕事には、なかなかきびしく、ノル
マが終わらなければ、暗くなっても帰してくれなかったが、人間は代表的
スラブ人で、つき合いが長くなるほど、親しみを増す好好爺であった。作業
の合間に、あたりを見回しながら、よく話しかけて来た。
『こんなことは、ソ連人がおればいえないが、お前たち日本人だから聞いて
くれ。今、スターリンという大馬鹿者が、のさばっているが、彼奴はこの国を
滅茶滅茶にしやがった。ポリシェビィキがなんだ。この国では、親子兄弟だっ
て安心して話はできない。革命のあと、親が子に密告されたり、兄弟で足
を引っばり合ったり、それは大変なものだった。どんな仲の良い同士でも、
政治のこと、お上のことの話はタブーだった。
そして、物はなくなる。戦争はおっ始める。物価は上がる。いいことしてや
がるのは、共産党のお偉方だけだ。見てみろ。卵だって、昔は5カペークも
しなかった。今は50カペークでも買えない。若い奴らは昔のことを知らんか
ら、こんなものだと思い込んでいる。』
老人の愚痴は、同じようなところに落ちつく。しかし、彼らのいう大祖国戦
争を勝ち抜き、ポリシェビィキ一色に塗りつぶされた鉄の統制の中に、必ず
しも同調者ばかりでないことを知った。これらの声なき声が鬱積して後日独
裁者を栄光の座から引き下ろし、死屍に鞭打つ結果になったのであろう。
俘虜の健康管理にはソ連当局も、相当に気を使っていたようである。医
者も外来に2名、医務室に2名のソ連軍医を常駐させていたし、薬も米国
供与の新薬も少しは準備していた。 もっとも、定期的に実施する身体
検査は、健康管理のためというよりは、労働力としての商品価値の判定の
ため、やっていたといった方が適当かも知れない。
まったく、この国らしい、極めて効率的? な評定が行われていた。検査
の日がやって来ると、全員素裸で判定官たる女医殿の前に次々に立たさ
れる。
一応、異状の有無を問診した後、やおら腹の皮をつまんで引っぱる。そ
のとき、かなり厚みがあって、手を離したときすぐ復元すれば、どんなに異状
を訴えようと、『ニチエポー、作業適』と判定が下る。
なかに、身と皮が分離して、復元に手間どる者がいると,『オン,ジストロ
フィー』(彼は栄養失調)と判定されて軽作業ないしは作業免除を言い渡
される。営内休、もしくは藷の皮むき程度の就業というわけである。
俘虜とはいえ、老・壮・青、バライティに富んだ全裸の男性群像を前にし
て多少、女医殿が楽しんでいた節なしとしない。
収容所生活で、一番心残りになることは、200余柱の犠牲者を出し遠
い欧露の僻地に残してきたということである。これらの不幸な同胞は、終戦
直後、復員していれば、こんなことにはならなかったであろう人たちだけに、
なんと釈明されても、理不尽なソ連当局の扱いに、今さらながらに憤りを
禁じ得ないものがある。
辛い、事故は原木伐採中一人の犠牲者を出しただけであったが、やは
り2年半の歳月の中には、慣れぬ生活環境と重労働に加えて乏しい食糧
事情の犠牲になって、不帰の道を辿る人々が、あとを絶たなかった。
最も多かったのは腸チフスの流行したとき50人ばかりなくなった。そのほか
胃腸障害、腹膜、肝炎、極度の衰弱などが重なり斃れてゆく人が多かった。
これらの悲しい犠牲者の出るたびに、国情、民情の違いから、遺体の取
扱い上、トラブルが絶えなかった。
彼らの考え方からすれは、人間は死亡と同時に物質に還元するし、本人
の財産(着用衣服を含めて)は、国に所属するようになるということである。
そのため、初めのころは、死者が出ると、全裸にして医務室内の屍室に入
れる。冬期はそのままで冷凍処理の形になる。数体たまると、墓碑作業
員を出して、橇に積んで埋葬に行かせる。本人の衣類などは、台帳から
落として倉庫に保管し、生きている連中の交換用に回される。後には、
やっと彼等を納得させて、シャツとズボン下だけは着けさせて野辺送りをす
るようにしたが、埋葬は依然として無縁仏式の集団埋葬が多かった。
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