ご愛読ありがとうごさいます。あと1回で終わりです。
 
「ウラルの彼方 道遠く」 H          もどる
 
 収容所生活に慣れてきたころ、いろいろ教育宣伝活動が活発に
なってきた。いわく、文化活動、いわくマルクス・レーニン主義講座、
壁新聞の編集など……。これらの活動の指導には当初、ワグナー
という得体の知れないドイツ系ソ連人が、後にはクロイツェルという
モスクワ大学の東洋学部を出たという日本語の達者な赤軍中尉
の肩書きを持つ女性及びゲラシモフ中尉その他の政治部将校が
当たっていた。
 彼らの私たちに接した態度はどちらかというと紳士的で、他の兵
隊収容所で行われたような、えげつない洗脳教育は実施されな
かった。
 『貴方たち将校はインテリだ。私たちがいくらここで、共産主義者
になれといってもなれるものでもなかろう。貴方たちが何を信じ何を
考えておられても結構だが、在ソ間にソ同盟の誹謗とファッショ的、
反動的言動だけは慎んでもらいたい』
 私たちに対するこの態度は2年半の間、終始おおむね変らなか
った。
 収容所関係の職員の勤務態勢は、完全な24時間制がとられ
ていた。収容所長以下の管理関係者は当直を除き昼間勤務す
る。文化活動担当者や政治部将校は昼勤者と入れ替えに収
容所に入って来て、深夜、時に明け方まで執務する。
 相互の指揮系統は違っていたが、実権ほ中央直系の政治部
将校が握っていたようである。たまたま,収容所長と政治部将校
が同室になったとき、『このごろ、所内の内務が乱れているようで
すね』『わかりました。早速、注意致します。同志ゲラシモフ中尉
!』少佐の昼勤所長が、夜勤中尉の一言にひかがみを伸ばす
一幕もあった。
  消灯時間(焼玉エンジンの旧式自家発電装置で各室20wくらい
の裸電球の照明があった)も過ぎ、昼間の疲れに綿のように眠りこ
けているところを、そつと身体を揺さぶる者がある。細目をあけると、
黙ってついてこいと合図する。全く夜の使者というにふさわしい陰気
な兵隊の導くままに足音をしのばせてついて行くと、営門を出て管
理事務所の2階にある政治部将校の執務室に連れていかれた。
そこで型どおりの経歴調査があってさらに、『ソ連へ来たのほ初め
てか?』と訊ねる。
 つづいて、地図を拡げて、
『いつ、どこに入って来たか、
正直に述べろ』という。私が、学校を出て北鮮で任官し、
そのまま抑留生活に入ったと答えても、なかなか信用
しない。それでは、あなたの学校はスパイを養成する
特殊な学校かという。いくら聞かれても、幼年学校、士官学校、
教育飛行隊、俘虜と直線コースを辿って捕ま
った私に、それ以上の
答えようがない。
 『それでは、ロシア語はどこで勉強したのか?』
 『幼年学校で3年間やった』『何のために?』
 『本を読んだり、新聞を見たりするため、また、将校の基礎教養
として習った』『嘘だ。あなたのロシア語は会話のロシア語だ。前に、
どこかに潜って来たことがあるだろう』拳銃をケースから取り出して机
の上に置く。
 『全然ない。会話は俘虜なって半年、やむなく通訳をやらされて
いるうち慣れてきただけだ』『ほんとかな?よく考えて答えろ』今度は
弾倉を抜いて弾丸を1発づつ並べ始めた。
 こんな問答が明け方まで繰り返された。結局逆さにしても鼻血
も出ないということがわかってやっと納得した。
 『それでは、君の政治的意見を述べてみてくれ』
 『私たち日本軍人は、政治かかわってはならないと常々教えられ、
そのとおり過ごして来た。ここで政治的意見をいえといわれても、な
んと答えていかわからない』
 『信じられない。いやしくも将校として何人かの部下を持つ人間
が政治的意見を述べられない筈がない』
 どうも政治という概念が違うような気がしたので『これが政治的
意見かどうか、わからないが、日本は今度、戦争をして負けた。
その政策や、やり方に、たしかに行き過ぎや、間違いがあったのも
事実だろう。しかしあなた方は否定するかも知れないが日本には
三千年の歴史と伝統があるのも事実である。そこで、将来私が
日本に帰ったときは、日本の従来のやり方で悪いところは改め、
あなたの国からも良いところを、また、アメリカらも良いところを採り
入れ新しい日本の復興に努力したいと思う』
『結構だ。立派な政治的意見を持っているじゃないか。私も、
全然同感である』と言いながら立ち上って握手を求めて来た。
 『そこで、君の気持もわかったので、民主的世界建設のため
努力している、私たちの仕事に協力してくれないか』『言われたこ
とがよくわからないが?』『民主主義による平和な世界の建設に、
手を貸して欲しいということだ』
 『平和は私たちの望むところだし、皆のためになること、日本人
の幸福につながる事なら努力したいと思う』
 『よろしい。君の意見を整理したので、この書類に署名して欲
しい』 出された書類を見ると私の言ったこととずいぶん違う。
“平和国家日本の再建を望む私は、民主的友好国ソ同盟の
施策に協力することを約束する。そのため、あらゆる非民主的
活動に加担せず、反動分子の排除、反ソ活動の摘発に協力
し、民主的活動分子として積極的に協力する”
 『これは、私にはよくわからないところがある。私は幼少のころ
から軍籍に身をおいて日本軍の正規将校として教育を受けて
来た。形はどうあろうと、日本人を裏切ることはできない。在ソ
中、ソ同盟の誹謗とファッショ的言動はやらない。また、行政
通訳として知り得る範囲の収容所の動向は伝えることができ
ると思う』『そうだ。そういうことを書類にしただけだ』
 『大事な問題だから間違いがあったらいけない。私のロシア語
の能力には限度があるので、日本語で書いたものなら署名し
てもいい』
 『では、そのことを自分で書いて署名してくれ』
 そこで、やむなく私は上記のことを文書にして署名した。それ
を確認して中尉は机の横の釦を押した。先程の陰気な兵隊
が顔を出して食事を運んで来た。収容所の炊事場で調理し
ているソ連幹部用の特別食だった。一応なごやかな会食にな
った。しかし、それからが大変−『次の会合は、いつ、どこで?』
『収容所内に憲兵出身者はいないか?特務機関員ほ?』
『収容所内の主な反動分子は誰だ?』
 『私は、収容所内の多くの人たちと違って北鮮で訓練中、終
戦を迎えたパイロットだ。関東軍将校の実情はよくわからない。
所内の空気は極めて民主的で、いまのところ問題はないと思う』
 こんな答だけでは、なかなか納得しない。加えて、スラブ民族特
有の粘り強さで、手を変え品を変えて締めつけて来た。何回呼
び出しても、いつも同じような返事しかしないので、だんだん機嫌
が悪くなり、時には脅迫も加える。
 こんな日々を送ったのではたまらない。行政通訳の面ではまた、
『通訳、前へ!』で夜昼の区別なく営門に呼び出される。さいわ
い、当時、午前中、在籍者全員の経歴調書を作る作業をして
いた相手の人事担当官が、地区収容所グループの監督官のD
中佐の夫人だったので、行政通訳や調査業務に支障があるの
で、夜間の呼び出しは止めて欲しいと頼んでもらった。その結果
かどうか解らないが、呼び出しの回数がだんだん少なくなり、1カ月
くらいで、全く引っぱり出されなくなった。当時、私の感じでは、
他に3〜4名の者がマークされ、いろいろな情報の収集に使われ
ていたようである。また先の、ワグナーやクロイツユル夫人もそれぞれ
別なルートで働きかけていたので、少なくとも3系統、2桁のポスト
を持つ調査活動の網が張りめぐらされていたようである。このような、
お互いに何か監視されている生活というものは、ただでさえ、希
望のない収容所の明けくれを一層暗い惨めなものにしていた。
 ソ連からの帰国者の多くが、あえて、抑留中のことを語りたがら
ないのを、この肌で感じた古傷に触れたくないという気持も多分
にあるのではなかろうか。比較的に紳士的取扱いを受けた私たち
将校収容所でさえ、この有様だったから、一般の兵隊収容所に
おいては、さらに酷いものであったと想像される。もっとも、これら
の監視の対象は俘虜だけでなく、ソ連人勤務者も含まれていた。
 『収容所の職員に対し、何か、気づいた事はないか?』
 当時、糧秣担当官でピンはねがひどく、当事者を困らせている
者のことを耳にしていたので、そのことを伝えると、善処を約束して
くれた。日ならずして、州政府高官の臨時査察が行われ、早速
関係者は更迭されて裁判にかけられた。
 すでに述べたとおり、収容所には数十人の先住ドイツ人俘虜が
いた。日本人の就労とともに逐次他処へ移って行って最後には
20人ばかりの連中と半年ばかり一緒に暮らすことになった。私の
見たところでは、一部の例外を除いて余り好きになれる連中では
なかったが、その生活態度には学ぶべきところが多く、やはり将来、
再び復興して国際社会に影響を持つ民族だという感じを禁じ得
なかった。
 彼らの生活は規準の設定
から始まる。糧秣の分配のた
め水平秤を作る。時間を規整するため標準時計を作る。
もちろん所在の材料を使ってである。堅木を削って作った歯
車、針金を切ってつないだ鎖など、その精巧な仕掛けには
われわれの眼を見はらせるものがあった。
 また、生活を豊かにするため、フルバンドのオーケストラを編成し
ていたが、その楽器は、大はベースから小はバイオリンまで、すべ
て手作りであった。食用の羊の腱を集めたり、電線やワイヤーの
切れはしをほぐして弦を作ったり、その創意と実行力は見事なも
のだった。
 すでに俘虜生活に憤れ切っているせいもあったが、大学教授
出身の老将校は、若い将校を集めて数学や物理の常設講座
も開いていた。経理将校は収容所の補給の実権を握り、ソ連
人の係官を顎で使ってスチュードベーカーの六輪車を乗り回し、
端境期の糧秣集積に東奔西走していた。
 ただし一般のソ連人のドイツ人に対する感情は極めて厳しい
ものがあった。ことごとに示す、むき出しの憎悪感、これは決して
昨日今日の歴史の浅いものではないと感じられた。日本人に
対しては、直接、戦火を交えた認識がないためむしろ好意的、
同情的ですらあった。
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